沈思黙考

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10月5日(金)

願わくはこんなジャイアンツが見てみたい…

と先日書いたばかりの仮想スタメンの1人、吉川元浩が戦力外通告!
(競艇にも同姓同名の人がいて、そっちも好きなプロスポーツ選手のうちの一人)

ジャイアンツから、好きな選手がまた1人去ってしまう。福井敬治のとき以来のショックだ。
喜びから一夜明けて悲しみが始まるとは世は無情だ。


10月2日(火)

…1年近く放っていたのですね。でも、また書き始める気力が湧いて来ましたよ。

2002年9月24日、就任1年目の原巨人がセ界を制覇した。あれから5年。

川相昌弘 三澤興一 福井敬治 木村龍治 後藤孝志 シコースキー 條辺剛 中濱裕之 桑田真澄 佐藤宏志 堀田一郎 …

好きだった選手達が巨人を去り、現役を退き、あるいは球界を去っていった。

世紀末は過ぎたけれど、相変わらず世の中は殺伐としているらしい。
孤高のオタクは相変わらず色眼鏡で見られるらしい。
刑期を終え贖罪を終えた元犯罪者に対してすら、世間は白い目で見続けるらしい。
「KY」という新世紀の全体主義が生まれつつあるらしい。

そんなどんよりとした世の中で、巨人の優勝というニュースは僕にとって心の底から喜びが沸いてくるニュース。何と晴れやかなことか。
この調子で日本一・アジア一・世界一になってもらいたい。

そして願わくは、

久保金刃高橋尚内海木佐貫会田の球を阿部が受け、中堅矢野を支える翼は由伸清水(左は支えてないかも…)。
鈴木尚二岡が内野を固め、一塁を守るは吉川元浩。そして代打の切り札は川中だ!

こんな巨人が見てみたい。

…あれ、サードがいない。叶わぬ夢だが福井敬治に定着してもらいたかったなぁ(2003年のフルジャンプは批判する人もいるが、僕はアレで福井ファンになった)。
永池も好きだけど。


↑ 2007年

↓ 2006年


8月6日(日)

7/29に開催された三国志シンポジウムについて。その壱 講演内容編

講演内容と銘打つも、他のサイトの方が詳しいと思うので、レジュメの補足・先生が口頭で語られた部分・特に僕の意識に残った部分などをつらつらと。

1.沈先生「小説『三国志』の主要な内容」について

・講師の先生が通訳として、沈先生のレジュメを代読するという形での講演でした。あれ? この講師の人って去年はコメンテーター席に座っていたような。まるで助さんからジョブチェンジして黄門様になった里見さんのようだ(ヲイ)! 冗句はさておき、改めてあれ(第一回)から1年が経ったんだなぁという実感が湧いてきました。会場で再会した後輩も、去年まで学部生だったのが大学院生になっていましたし…

・「小説を読んで謀略を好むようになるのは、その人の心の持ち方が正しくないから
 という一文にショック! 中学生の頃、人を次々に陥れる諸葛亮の謀略に憧れていた僕はいったい…

・「(中国では?)桃園結義をまねる悪党集団がいるのは三国演義の悪影響だという人がいる
 という箇所も興味深い内容でした。「悪い人間が三国演義の故事を真似ているから、三国演義は悪いものだ」と批判する人がいるけど、それはおかしいと沈先生が力説しておられました。日本ではあまり聞いたことが無い類の意見だなぁ。

 …と、思ったら、日本にも似たようなのがいましたね。「三国志」を「ポルノ」や「ゲーム」に置き換えれば、ゲーム脳提唱者や児童ポルノ法推進者など、ワンサカいました。宮崎事件から始まるオタク受難時代にもこの手の論調がありましたね。いつの時代のどこの地域にも、頓珍漢なことをいう人々というのはいるものなんだなぁと、先生の話を聞きながらつい笑い出しそうになってしまいました。

・「諸葛亮は愚忠であると言う人がいる
という考え方への反論も熱いもので、先生の諸葛亮への思い入れが強く伝わってきました。この「愚忠」という単語があまり僕には飲みこめなかったので感想はココまで。

・最後に先生は「中国人は三国演義に詳しいのに、誤解があった。こういう誤解は日本にもあるのではないか。このレジュメによって三国演義を知ってもらい誤解を消したい。この問題に対し、皆が議論することを願います」とおっしゃられました。
「誤解」とはおそらく、「桃園結義」「愚忠」といった、三国志に対する(先生曰く)「誤った」見解の事を指していると思われます。絶対的価値観の存在を否定する立場の僕としては、先生が言うところの「誤った」が本当に誤っているのかについては全面賛同はできませんが、議論の余地があるということに関しては同意します。議論なくして何も進みませんからね。

・先生の発音される中国語は、まるで初心者向けのラジオ番組のように聞き取りやすいものでした。講演するときの配慮が感じられました。
 ただ僕は中国語をほとんど知らないので、単語単語(caocaoとか、sanguoとか)でしか聞き取れなかったんですけどね(涙)。

2.上田先生「小説『三国志』と日本人」について

・「江戸時代の三国志本の挿絵には牛車が描かれていた
 というのは面白い。まあ情報が無いから仕方の無いことなのでしょうけれども。

・「カタカナだった表記をひらがなにしたら『読みやすくなった』と遊女が言ったという記述がある
のには驚き。遊女というと時代劇で借金のカタに貧乏人の娘が売られてなるというイメージがあったため、お世辞にも学は高くあるまいと偏見を持っていたのだ。それが「三国演義」を読んでいたとは!
現代でもライトノベルと称される軽い(?)文体の本が広まるようになり、文学者を自称する人々を嘆かせているが、江戸当時も似たようなものだったんだろうなぁ。
「ひらがな? 本はカタカナじゃないとだめでござる。ひらがなの本なんて読むと学力低下(以下略)」などと当時の偉い人たちも考えたのだろうか?(笑)

・「諸葛孔明鼎軍談絵尽という浄瑠璃は孔明が劉・曹・孫を引き合わせて話し合い、『みんな仲良くしよう』というハッピーエンド(?)で終わる
うわ! なんて日本的な物語なんだ!

・「絵本通俗三国志の葛飾戴斗二世の挿絵はグロシーンばっか
 個人的には「戴斗二世」という名前のほうにインパクトを感じますが。 ルッパァ〜ン ←それは別の三世。
 江戸の読者が劉安の妻肉料理の挿絵を見てトラウマにならなかったか心配。

・パワポによる発表は学会等でしょっちゅう見ているけど、終了時に「ご静聴ありがとうございました」とデカデカと表示される(しかも多段)発表は初めて見た!

・あれ、この人も東大の人?  慶応と東大は伊比の仮想敵(爆)。

3.渡邉先生「諸葛亮の兵法」

・一般人向けのシンポジウムを強く意識してか、完全にネタキャラと化していたような気がします(褒め言葉です)。
しきりに大東文化大学中国学科への勧誘をしておられましたが、僕の勤める塾では毎年必ず大東文化を志望する中学生がいるので(近場では有名な文系校ですし)、ひょっとしたら教え子のうち1人くらいは大学進学のときに中国学科を選ぶかもしれません。僕でも多少はお役に立てたかと。

・沈先生・上田先生とも共通して言えることですが、今回は講演者が揃いも揃って話が上手い! 人に聴かせ、魅了する技術が高い! 渡邉先生は最初は声のトーンがあまり変化せず、単調になるきらいがあったものの、後半はまさに「舌好調」の当て字が相応しいほどの凄まじさ。いや、ホント。惚れ直しました。当方男ですが気にしない。

・「諸葛亮が『これはやっちゃダメ』といっていた兵法をすべて(?)実践して劉備は夷陵で負けた
駄目だ。陸遜に勝てる見込みが万に一つも見当たらない!! ていうか、劉備よ…

「合理的に戦わなかったから負けた」例として太平洋戦争における日本軍を挙げられてましたけど、沈先生(中国人)の前で言うのはチャレンジャーだよなぁ…と。僕は冒険者は大好きです。

「東南の風を起こすには道教の色々な儀式が(以下略)」
 実は社会科の教員免許を取得するための授業で、禹歩のステップを見たことがあります(古代中国史が専門の先生だった)。レポート提出のため、道教の本を読んで禹歩を調べたこともあります。でも、実際に試したことはありませんでした。大勢の前で禹歩のステップを披露する大学の先生を見るのはこれで2度目です(まさか2度もあるとは思わなかった)。僕もマスターしてみようかな、禹歩。

「縮地も道教の秘術」
 縮地の法を知っているのならば、魏延の子午谷奇襲のときに使ってやれよ、と思ったり思わなかったり。
 縮地っていえばとりあえず天剣の宗次郎ですよね〜。そっか、彼は道士の才もあったのか(マテ)。

4.伊比的総括

第一回と比べ、圧倒的に面白くなっていた今回の講演。「中・高校生に大東文化大を知ってもらう」はずのわりには参加者は「大きなお友達」ばかりだった気もします(笑)。それはさておくとして、ハッキリ言いましょう。

もし、このクオリティで次があるのならば、絶対に「買い」です。

三国志好きな中学生・高校生よ、三国志シンポジウムに是非とも参加しましょう!

さらなる三国志の世界がキミ達の前に広がりますよ!

両手で影絵の狐(発ロ[火+慮])ポーズをしながら
歯をガチガチ鳴らし(叩歯)つつ、
軽やかなステップ(禹歩)で呪文まで唱えちゃう渡邉先生を
見られるかもしれないのは三国志シンポジウムだけ!

と少年ジャンプ的煽り文句で本日はおしまいにさせていただきます。パネルディスカッション編はまた今度。


7月9日(日)

PC不調の間、mixiで書いていた日記のうち、沈思黙考に載せても良さそうな内容の転載その2(全3回)。

2006年06月09日03:17 「鳩」より。若干手直し。

小〜中学生の頃、赤川次郎にはまり、自分でへたくそな探偵小説もどきを書いていた。それらの本はファイルにとじて今でも本棚にしまってあるのだが、読み直してみると、恥ずかしさのあまり途中でページを閉じたくなる。何というか、すべてが黒歴史。

その中にたった1つだけ、プロットのみで止まっている作品がある。主題となるテーマの証拠を見つけられず、作品として書けなかったのだ。

テーマは鳩。

中学生のときに読んだ何かの本で、「鳩は仲間内を攻撃することがある。最初の一匹がつつきだすと、理由もなく他の鳩もその鳩をつつき始め、しまいにつつかれた鳩は死んでしまう」のような話があった(ような気がする)。

この「鳩の攻撃性」はフィクションなのか、ノンフィクションなのか?
そもそもこの話は何と言う本に載っている話だったのか? 学研の雑誌か、小学館の雑誌か、それとも新聞のコラムか…

「鳩の攻撃性」がフィクションであるなら、それをモチーフにした作品は説得力を持たなくなる。それで当時の僕は書くのをやめた。

攻撃性はハトに限らず、鳥全般に言えることなのか、それすらわからない。ネットでも調べ方が悪いのか、まったく見つからない。
何ともどかしいことか。

ひょっとしたら以前の沈思黙考でもこの話を書いた気もするが、それだけ気になっているネタということで勘弁。


7月6日(木)

PC不調の間、mixiで書いていた日記のうち、沈思黙考に載せても良さそうな内容の転載その1(全3回)。

2006年06月05日07:14 「環状8号線全線開通」より。若干手直し。

昔、東京から福島に引っ越していった幼稚園児がいました。その子は福島で「東京者」とイジメられましたが、徐々にうちとけて周囲と仲良くなれました。3年後、再び東京に戻ってきたら、今度は「福島の田舎者」とイジメられました。周囲の都合で価値観なんてコロコロ変わることを体感したわけです。

その結果、その幼児は「周りの皆が言うことが正しいわけではない」「絶対的に正しいことなんて無い」「みんなの意見なんて糞食らえ」と考える小学生に育ちました。集団の数の理論による価値観に対し、否定的感情を自然と持つようになったわけです。
ええ。僕のことです。

そして時は流れ、中1の終わりごろ、環状8号線の拡張工事のために住んでいた家を立ち退くことになりました(もともと借家だったので、「自分の」家ではないですが…)。
思い出の詰まった家を立ち退かなければならないと知ったときのあの衝撃。

環状8号線が全線開通すれば、確かに便利になります。しかし、当時の僕はこう解釈しました。

「利用者(みんな)が幸せになるために、お前(個人)は不幸になれ」ということかっ!?

ただでさえ「みんな」が大嫌いなうえに、多感なお年頃。僕は早速行動に出ました。

1.自宅前がなぜか事故の多発地帯だったので、事故現場から事故車のガラスの破片を拾ってくる。

2.藁半紙に「この道路を使うすべての人間に呪いあれ」と呪いの言葉を書き付け、拾ったガラスで親指を突き、その血で押印する(血判状とごっちゃになってますね)。

3.納豆の藁に、呪いの書(?)と事故車のガラス片をくるみ、藁人形の形にして夜中に釘を打ち付ける(本当にいろいろな要素が混じっていますね)。

4.自宅のあったところをスコップで掘り、クギが刺さったままの藁人形を埋める。

アスファルト舗装する直前にした行動なので、今でも多分、埋まったまま…!? 俗に言う中2病?

新しい引越し先は立ち退き前の家の正面のアパートだったので、自分の家が壊されて更地になり、道路になる過程を複雑な心境で毎晩眺めていた記憶があります。それから15年以上してやっと道路が完成したのです(今でも、重機で解体途中の半壊状態の家にもぐりこんで生活することで工事に抵抗し、家を守りきるという夢を、たまに見ることがあります。その夢はいつも同じストーリーです)。全人生を賭けたつもりで呪ったのが13のときですから、年齢分くらいは工事延期の力があったのかもしれませんね。

結局、環状8号線は50年の歳月を経て完成しました。でも、その影には無数の個人の悲しみがあったことを忘れないでほしいなぁ、と僕は思うのです。

道路に限らず、工事現場を通ったり、巨大なダムや再開発事業(駅前再開発とかマンション群とか)を見たりするたびに、僕は立ち退いていった人々の生活が思い起こされて切ない気持ちになります。

ダム建設で村が沈んだ人々、成田空港や米軍基地周辺の自分の土地を守ろうと抵抗する人々。
そんな「みんなのために犠牲になる個人」達を僕は心から応援しています。頑張れ、負けるな、くじけるな。

オマケ:車線が倍になって交通がスムーズになったはずなのに、なぜかウチの前は相変わらず2ヶ月に1回くらいの割合で事故が起こります。夜中に「ガッシャーン」「ズドン!」の音で目覚めることもしばしば。ドライバーの人は安全運転を心がけてくださいね。


7月3日(月)

早稲田の先生が不正会計+論文捏造疑惑で揺れているそうな。

あの人には大学1年生のときの飲み会で「サークルは何に入っているの?」と聞かれて「歴史系サークルです」と答えたときに、
「歴史なんて趣味、何の役に立つの?」
と言われ、「ああ、この人は思想的に不倶戴天の敵だ」と深く心に刻み込んだ経緯があるので、僕にとって好感度レベルは最悪の相手なのだ。

ついでに講義のときの板書はグチャグチャだし、解説はわかりにくいし、定期試験の日の朝の段階でテスト原稿が完成せず(!?)開始時間10分してから急いで持ってくるなど、教師として見たときの僕の評価もかなり低い(有機・量子・構造の先生の授業は結構好きだった。ノートがそのまま参考書になる!)。

ただ、1つ言えることがある。個人的に大嫌いな人ではあるが、あの人は研究者としては間違いなく一流である。その評価は僕の中で決して変わらない。この問題で失脚することになるのは、日本、いや、世界の化学界にとって大きな損失であろう(現にIUPAC副会長を辞めることになったし)。それだけは声を大きくして言いたい。よく情状酌量とか減刑嘆願とかいう言葉を目にするが、そういう制度があるのなら、ここで使わなくてどこで活用できるというのか。

たまに研究者について疑問に思うことがある。「公私混同」というが、研究が趣味と重なっている場合、どこまでが公でどこまでが私になるのだろう。
たとえばゲーム研究をしている教授がいたとして、公費で買ったゲームを家でやったらおそらくアウト? 家でそのゲームのフローチャートつくるのはアウト?
逆に私費で買ったゲームの内容を論文に入れたらアウト?

ゲームというのは大げさとしても、研究者の中には「公」と「私」が限りなく一体化している人が多いと思う(正月の3日間以外は研究室に居続け、楽しく有機合成してるヒトとかね)。そんな人は私財を平気で研究に投げ打ったりするからなぁ…
もっともM先生の場合は文科省相手にいろいろ小細工をして個人口座に入れたのが「個人流用」ということでアウトなんだけど、僕の感想としては、俗に言う「私服を肥やす」とは違うんだなぁ。学生バイト名目で吸い上げた金はユウロピウム錯体や高性能NMRに化けるハズだったと考えたほうがあの人らしくてシックリくる。

ともかく、前科者には厳しい日本であるが、早いところそういう悪習を排し、罰が済んだ段階で彼女が再び一線に立てるようになって欲しいものだ。国外に流出したらもったいないどころの騒ぎじゃないですからね。善良な凡人を選ぶよりは、僕は能力を優先したい。嫌いな人だけど、優秀だから仕方ない。

グレーゾーンな追記
1.先生が大学を辞めたら研究室はどうなるのかな? あそこは学科の中でも最優秀な精鋭部隊が集まるところだったから、もし再分配となれば人材の争奪戦が起こりそうだ…
2.論文捏造疑惑に関しては、先生本人というより、中○から来た客員達のせいだと思うんだけどなぁ…今は本国に戻って立派なポストにいるのかな?
3.先生が消えると東大閥の力が弱まり、徐々に早稲田独自の色が出るようになるのかな?
4.てゆーか、教育の生物が理工(バイオ系)の出先機関に成り果てているのはどうにかならないものか。建前は理科系の教育者を育てる学科じゃなかったの?


3月17日(金)

ライブドア事件って、なんであんなに叩かれるのだろう?

素人判断では、ライブドアがやったこととそれに対する処罰としては、西武鉄道やカネボウと同じような気がするのだが、西武やカネボウのときと雰囲気が違う気がする。

何と言うか、確かにライブドアは粉飾決済という犯罪行為を犯したから逮捕されたわけなのだが、因果が逆というか・・・うまい言い方が思い浮かばない。マスコミの論調ではライブドアは悪いことをして逮捕された。だから堀江社長は悪だ。となっている。だが、なんとなく僕には堀江社長を悪にするために、逮捕を大々的に宣伝しているような気がするのだ。

この手法はオウム事件のときにも見られた。オウム事件が発覚した後、信者があちこちで逮捕された。その結果、オウム信者は逮捕されるようなことばかりする悪だという印象がより強まった。しかし、信者が逮捕された理由を見てみると、ビラ配りの不法侵入であるとか、車の中にカッターナイフを所持していたとか、そんな理由である。
罪は何でもいいから、とりあえず逮捕する。逮捕すれば「逮捕される=悪」という印象が植え付けられる。悪なら叩いても文句を言われない。そんな雰囲気。

ホリエモンは悪だから逮捕されたのではなく、悪にするために逮捕されたのだろうか。犯した罪以上に悪呼ばわりされているような…


3月16日(木)

最近入塾した生徒で、入塾申込書の名前と、本人の書く名前が違う子がいた。漢字が微妙に違うのだ。僕の知る限り、旧字体・異体字による違いではないと思う。

不思議に思って、話す機会があったときにどちらが正しいのか親に聞いてみた。すると、

親「ああ、どっちでも構わないです。気にしてませんから」

………は?

気にするよ! 自分の子どもの名前でしょ!!

どっちでもいいって、どういうことだ!?

と、思ったが、口には出さないでおいた。面従腹背がサービス業のポリシーですから。(というか、戸籍はどうなっているのだろう)

でもですねぇ…

名前って、その人の存在証明でしょ。例えば「山崎」が「やまさき」か「やまざき」で戦争が起こるでしょ(おこりません)?
僕のHNを「いひ」と書いた後輩に石見銀山を下賜するでしょ(してません)。
キノコの「しめじ」の発音でクラスが分裂して、学級会の議題になったりしたでしょ(これは実話)。

僕は名前には徹底的にこだわるタイプ。
例えば渡邉さんなら「渡辺」と簡略化しないで、「渡邉」とちゃんと表記する。旧字体・異体字の苗字を書いてくる生徒に対しては、ワープロソフトが対応していなくても、外字エディタを使って頑張って表記する。僕が手がける個人成績表は全てそう。だって、その旧字体・異体字の1つ1つがその人の名前なのだから。渡邉さんは渡邉であり、渡辺でも渡邊でもないのだから。
だから、「どっちでもいいです」なんて言われると、非常に悲しく思う。その場にいなかったから良かったけど、子どもが聞いたら悲しむよ。もっと、名前に誇りを感じようよ…

まあ、名前に誇りをもたなくなったから、地域名で「南セントレア」なんて言い出す人も現れるようになったんでしょうけどね。
ひらがなは親しみやすいから「さぬき」とか「さいたま」とか…もう、勘弁して。


3月7日(火)

2月3日、節分の日に事件は起こった。立ち上げたパソコンがCPU100%のまま固まる。そのうち、起動して5分もしないうちに自動で消える。
ウイルス検査には引っかからない。エラーチェックもした。解決策が見当たらない…

2月は高校受験の月。PCを修復するゆとりもないので、3月までPCを封印することになったのでした。

3月。ケースを開けて中を確認。大通りに面した我が家は埃がたまりやすく、1年間掃除していなかったケースの内部には埃がビッシリ。なんと、埃と髪の毛が固まってCPUファンがピクリとも動いていないことが判明。エアダスターとピンセットで埃を全て除去し、ついでに他の箇所も掃除したり再接続をしたりしてみたら、無事復活。
PC不調の原因はウイルスでもHDD故障でもなく、ホコリでした。掃除は大切ですね。

ちなみに1ヶ月PCを封印していたうちにたまったメールは2月27日まででピッタリ1000件(9割以上がスパムですが)とキリのいい数。そして28日以降はなぜかメールが来ていない。不思議に思って調べてみたら、契約している会社がメールを1000件までしか保存しないらしい。ということは、2月27日以降3月6日以前に送られたメールは自動削除されたか、差出人に返されたようだ。その間に大事なメールが来ていたらどうしよう。
最近伊比宛てにメールを送り、返事が来ないという方がもしいらっしゃいましたら、誠に申し訳ありませんが、再送願います。


1月27日(金)

楽天の1円オークションに興味のある品が出品してあった。オークションを利用するのは初めてなので、規約等を熟読してチャレンジしてみることに。

その品の状態は残り10分で入札が0だったので、とりあえず1円で入札。そして1円で落札。
翌日、出品者からメールが届きました。

“申し訳ありません。1円ではお売りできません。宜しくお願いいたします。”

え? え? 1円オークションって、1円で落札される可能性も認めたうえで出品しているものじゃないの?
1円で買えることもあるから、1円オークションっていうのかと思っていたのに…

出品者が売る気が無いということなので契約は不成立となりましたが、1円で売る気が無いのなら、どうして出品者は1円オークションに出したのだろう?? 謎だ。


1月26日(木)

以前、東証のエラーのときに20億もうけた人がいた。それに対し、快く思わない人が多いようだ。
お金に関しては古来より「汗水働いて稼ぐ〜」とか「悪銭身につかず」などという言葉がある。僕から見れば、お金に清いも汚いもへったくれも無いのだが、「努力して得られる金は良い金」という信仰をしている人は多い。逆に言えば、努力しないで得る金に対して否定的な感覚を持つ人も多いということ。

政府かマスコミか経済界か、誰の思惑なのかは知らないが、堀江氏をいっせいに攻撃している風潮がある。その次のターゲットは個人投資家(特にデイトレーダー)のような気がしてならない。確固たる確信は持てないのだが、何となくデイトレーダーに対して「働いていない、家にこもっている、なのに億単位の収入を得ている、けしからん、ひきずりおろせ」という大衆の悪意が集約しつつあるような気がするのだ。飛び出た杭を叩き潰すのが好きな国民性を考えると、近いうちに何らかのアクションが引き起こされそうな予感がする。
それは例えば個人投資家に重税を課すとか、何なのかはわからない。
「個人投資家の皆さん、気をつけて」と偉そうなことをいえる立場でもないが、何か心配だ。杞憂であれば良いのだが。
デイトレーダーは別に法律を犯しているわけでもなく、システムにのっとって経済活動を行っているだけなのに、これに対して不満をたれるとは、これ如何に?

また、ライブドア問題に関連して、経団連の次期会長が「倫理なき自由経済は破滅に向かう。企業倫理をそれぞれの会社に構築してもらうように繰り返し訴える」と言っているようだが、それぞれの倫理に任せるという発想は、結局、似た価値観を持つ者同士の間の馴れ合いのうちは通用するが、価値観を異にする者と接したときに破綻する。ライブドアにやられたことをまた繰り返すだけになるのである。
堀江氏は逮捕され、一部の行為が違法と認識されたわけだが、M&Aは適法であった。もしM&Aまでも「悪」と色眼鏡をかけ、善悪論だけで対処しようものなら、いずれ再び日本企業は異物とぶつかり、敗退することになるだろう。それこそ経済面におけるアメリカ合衆国の日本州のできあがりとなる。

倫理は可変であるが、論理は不変である。見える法には従うが、見えない法になど従うとロクなことにならない。


1月24日(火)

ホリエモンが逮捕されたそうで。罪状が事実であるならば、法の裁きを受けなければならないのは当然のこと。
しかし、とても残念なことが1つ。それは「人の心は金で買える」という至言が、そのまま葬られてしまうかもしれないことである。

日本の風習か、世界中の風習か知らないが、少なくとも日本では「善人のしたことは全て善」「悪人のしたことは全て悪」という不思議な思想(善悪の固定)がまかり通っている。そして、善悪の切り替えはいとも簡単に行われる。例えば明治時代になったときには廃仏毀釈運動が起こったし、太平洋戦争が終わったときは戦前の思想は全て悪とされた。戦前の教育を否定した戦後の教育がどうなったかを考えれば、その考えが妥当だったかどうかはわかるはずなのに、今でも一部の人間は戦前教育を全否定したがる。100%の善・100%の悪は存在しないということを受け入れられないのが、理想主義的教育者の性質なのだろうか?

メディア絡みだと、小説家や漫画家が逮捕されると、その人の書いていた本は回収される(僕には到底理解できない現象。作者の逮捕と、著作物に関係があるのだろうか?)。それと同じように彼の「人の心は〜」発言も、彼の逮捕によって、「逮捕された悪人の言ったことだから、彼の言葉も間違い」とされてしまいかねない。これは危惧すべきことだと僕は思う。
「人の心は金で買える」という言葉は、真実をついた名言・至言であると僕は評価している。ただし、僕の考えは「人の心を金で買うことはできる」が、「全ての人の心を買うことはできない」という、部分肯定である。「心を金で売り飛ばす人間もいるよ」という程度。

そもそも、「人の心は金で買える」という文は、全肯定ではなく、部分肯定として解釈するのが普通と思っていたのだが、批判者の意見を見るとほとんどが全肯定の文と解釈している。僕の文法解釈が間違っていたのかな? (国語が得意そうな人に今度聞いてみよう…)
そして批判者はたいてい氏の意見を徹底的に批判、全否定している。その中には妙な批判もある。

ヘンな(?)批判のパターン(引用ではなく、僕が見た中でよく出てきた言葉を適当につないでみました)
「堀江氏は『人の心は〜』と言っているが、かわいそうな人だ。そりゃあ、金で動く人間も少しはいるだろうけど」

事実関係を述べた文章に対して何故か「かわいそう」と感情論で対応している。そして「少しはいるだろうけど」という文章は、少しとはいえ「人の心は金で買える」事実の存在を認めているわけであるから、結果的に「人の心は〜」を肯定していることになる。つまり、部分肯定しながら全否定するという矛盾が起こっているわけだ。矛盾して破綻した理論は攻撃力を持たないので、上記のようなパターンの批判は無効化されたことになる。
そして今、眠い頭で書いている僕の理論にも穴がぼろぼろ開いていそうな気がするので、僕のこの主張も無効化されるかも。是非も無し。

論点がフラフラしてきたので強制着陸して、今日の結論

堀江氏が逮捕されても「人の心は金で買える」という言葉は重く在り続ける。なぜならば、これは全否定のできない事実だからである。そして彼の言葉の是非をめぐる論争は、互いの世界を未経験な者同士による、自世界の価値観の押し付けにすぎない。


1月23日(月)

1月のはじめ、職場で今年1回目の競馬談義が開かれた。

相手「明日のレースは9頭立てだから、当たる確率はデカいですよ」

僕「じゃあ、今回もとりあえず5−12から探ってみますか」

相手「貴方はバカですか?」 →9頭で走るレースに「12」はいないことに気付くのに数秒かかった(笑)。

12が無いことでテンションが下がったが、とりあえず強いと評判の武豊が7にいると聞いたので、12引く7で5。「5−7」を推すことにした。当然1点1万。

が、当日に寝坊するというアクシデント。馬券を買いに行ったら授業に間に合わなくなる!
→結果的に正解。5−7はまったく絡まず、1万円をJRAに喜捨することは回避されたのだった。

番号を外して損せずに済んだのは天佑。これを教訓とし、直感で数字がひらめいたとき以外は一切賭けには手を出さないようにしよう。うん。
数字が頭に突然浮かび上がることなんて滅多に無いことだし…


1月19日(木)

先日の続き。ビギナーズラック発動の翌週のことである。

「明日の有馬はディープが来ると思います?」と、同僚に訊ねられた。

僕は当然のように「確か、ソレって強い馬ですよね。12なら来るんじゃないですか?」と答えた。

残念なことにディープインパクトは6だという。でも、ディープインパクトは強いらしいので、僕は改めて考え直し、第二候補を挙げることにした。

僕「6のペアなら、5×12÷6で、10なんてどうです? 10は来そうな馬ですか?」

相手「あ、けっこう来るかも」

僕「じゃあ、6−10で決定ですね」

前の週に直感で大勝した僕は、この回も直感の一球勝負に出ることにした。すなわち、6−10馬連1万円。そのことを家族に話したところ、「今回は10じゃなくて、3や9が来るらしいぞ」との助言が。「5−12は運をくれた番号なんだから大事にしないと」との意見も。確かに5−12は縁のある数字なので、粗末に扱ってはバチも当たろうというもの。親に悌たらんとすれば己を裏切り、己を立てんとすれば親を裏切ることになるという板ばさみ。話すんじゃなかった(今思えば、他人に話した時点で己の運は消え始めたのだろう)。
親の意見を無碍にするのもなんなので、1万を3:3:3:1に分割して6−3,6−9,5−12も買うことに。

結果。6−10が来ました。ムゥ、直球勝負してれば利益が約6倍になってたのに残念。

どうも僕は、周囲の意見はあくまで参考にする程度で、基本は自己主張で突っ走る方が結果的に良いタイプなのかもしれないと思った年末の馬占い。


1月17日(火)

先月半ば、同僚が「1〜18の中で、好きな数字を2つ挙げて」と聞いてきた。そこで僕は「12かな」と返事。
理由。5は五行説の5だから。12はたくさん約数があって好きだから。そして5と12を掛ければ60になるから(還暦=60のように、60は意味のある数字なんです)。

それはさておき、それに対する彼の返事。「じゃあ、5−12は買わないことにします」と。どうやら競馬の番号を初心者である僕に訊ねたらしい。そして、その番号を買わないという、素晴らしい信頼っぷり。ビギナーズラックを信じていませんね。
そして当日。来ましたよ、5−12が。しかも、馬連倍率が192倍! 買ってれば良かったのに、残念。

翌週、その同僚がスポーツ新聞片手に話をふってきた。「今週は何が来ると思います?」
僕の答え「そりゃあ、5−12でしょう。僕のラッキーナンバーですから」 
言った後、一笑に付されるかと思ったら、相手は微妙な顔。どうも、その週も5−12が来ないとも限らないらしい。

そして日曜。新宿高島屋に用事があって買い物に出かけたら、買い物帰りにJRAの建物が目に付いた。「5−12」というフレーズが頭をよぎる。時は年末。一年の運試しをするには絶好の機会! そして僕は何の知識も持たぬまま、ウインズの建物に入っていった。

とりあえず券を手にとって眺めてみても、どうすればよいのかわからない。見ると、壁際にヘルパーの人がいたので、その人に記入をお願いすることにした。

僕「すみません、今日のG Iを5−12でお願いします」

相手「朝日杯ですね?」

僕「いえ、朝日杯ではなく、G Iです!」→後ろの人に笑われた。とりあえず、朝日杯=G Iと教わる。

相手「5−12は馬単で、馬連で?」

僕「馬単って何ですか?」→レクチャーを受ける。僕のラッキーナンバーは組合せであって順列ではないので、馬連になるのだろう。

紆余曲折の末、買った馬券は「5−12馬連 1万」一点買い。漢なら複数買いしちゃだめだ。浮気はダメ。

→結果。ゐゑ〜ゐ、見事的中。ビギナーズラックだ!
これで引っ越しの時期が1月ほど早まったかしらん。実に幸先の良い年末でした(ヘンな日本語)。


1月16日(月)

今年初めての夢を見た。「初夢」は本来は元日の夜に見るものらしいので、正式には初夢ではないのだが、僕にとっては今年の初夢である。
で、夢の内容はというと…

サッカーのワールドカップで、日本代表が中国と対戦しているというもの。日本側は全て今活躍している現実の選手(でも都波ラモスがいた。GKは川口)。

そして、中国チームにはリ・ハンネリ・バンクンがいた!(この時点で破綻)

さらに、彼らはツインシュートを放ってきた。

僕は思わず観客席から立ち上がって叫ぶ。

「あんたら、ツインシュートが撃てたのか!?」

そして目が覚める。ネットで検索し、多分、あの兄弟はツインシュートは撃てないと確信するに至る。

・・・素敵な2006年の初夢でございました。昔見た、「ロッテの牛島に弟子入りして、中日の落合から三振を奪うための特訓をする」夢に匹敵するほど不可思議な夢だ。


1月2日(月)

この前CNNニュースを見ていたときのこと。エイベックス社員を殺害すると脅迫した(掲示板に書き込んだ)男が逮捕された話が紹介されていた。
その中でキャスターが読み上げた文章に、引っかかる表現が。

”エイベックスはこの件を受け、のまネコの使用を中止 云々”

聞き間違いではないと思う。ハッキリと「この件を受けて」と言っていた。

エイベックスは10月12日の発表で、
”なお、9月30日以降、当社従業員並びに当社代表取締役社長及びその家族に対して度重なる殺人予告等がなされましたが、当社グループによる上記決定はこのようなことを理由とするものではございません。”
と言っているので、これは明らかにCNNの勘違いであろう。

「脅迫されたからのまネコ使用を中止した」
知らない人がここだけ聞いたら、エイベックスが善ということになる(加害者=悪、被害者=善という発想は間違っていると思うのだが、大部分の人はこのような思想を持っていると思う)。
客観性を無視して片一方に寄った報道をする。ニュースがそれではまずいですね。

偏向報道といえば、宮崎勤のときの印象操作もあるが(オタクの苦難はあそこから始まったと言っても過言ではないだろう)、あの話もネットの力を借りてようやく知られるようになってきた。僕としてはとても嬉しい限り。新聞やニュースは主観を交えず、ただ客観的事実を伝えればよいと僕は思う。「悲惨な事件」とか「残酷な容疑者」とかは聞き手が事実から判断するべきことで、話し手が決めることではない。


1月1日(日)

芥川龍之介は昔話を用いて代表作とした。

平井堅は童謡を用いてヒット作とした。

芥川や平井のしたことは著作権的に問題か? おそらく問題にはなりません。何故かと問われれば「著作権が切れているから」と答える人が多いでしょう。

では、二次創作の世界はどうでしょう。マリグナが警告を喰らったり、ゲームサイトに行けば画像や音楽は使用するなと書いてある。それがファンサイトで、そのゲームの面白さを広く伝えようと思ってやっていることでも、中止勧告を受ける。著作権が強く主張され始めた時期に、多くのmidiサイトが閉鎖した。絶版になった本でも、図書館で全文コピーはダメだという。売ってもいない本なのに、権利は生きている。

著作権が切れた文献・音楽はOKで、そうでないものはダメ。この差は何なのか。今の著作権法は、著作者や関連企業が利益を上げるための法律でしかないのではないか。

僕は憤った。くたばれ著作権!と。
著作権という考え方自体は否定はしないが、「ネズミ保護法」と揶揄されるような現行法に従う気は無い。とはいえ、著作権法に違反したら逮捕されるのはWinnyの事件を考えるまでも無く、当然の結果。悪法も法だから仕方ない。

ではどうするか。著作権がらみの犯罪(今はそういう扱い)のポイントは、これが親告罪であるということ。被害者が訴えなければ罪にはならない。つまり、被害者が「著作権放棄」と宣言すれば良いのだ。
問題はこれが「犯罪を誘発する行為」と捉えられて犯罪扱いされるかどうかだが、著作権放棄宣言は「全ての使用を許諾」と内容的には同じ意味を持っているのだから、そもそも犯罪にすらならないような気もする。

とはいえ、著作者人格権のように、自動的に発生するのに放棄できない権利もあるようだ。なのに「著作権放棄」と宣言すると、反著作権派に悪い感情を抱く人の中には「全ての著作権は放棄できないんだよ、寝言は寝て言え」と揚げ足を取るものもいるだろう。
そこで、「All Rights reserved」への明確なアンチテーゼとして僕が思いついたのがコレ。

Partial Rights Abandoned(著作権の部分的放棄宣言)

である。さりげなくホームページに昨年秋ごろから出しているので、お気づきの方もいるかもしれない。
もしもクリエイターになることができたのならば、二次創作を奨励するクリエイターになりたいものだ。でも、著作権放棄宣言をする創作者を受け入れてくれる業界は無いかな(笑)。

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