[提起] 魏延、字は文長。この蜀後期の名将についての我々のイメージは余りにも悪いものばかりであります。
だがちょっと待って下さい。魏延に関する話のほとんどは、羅貫中の三国志演義によるもので、正史には「反骨の相」なんて一言も出てきていません。ではなぜ魏延はこのように扱われるようになってしまったのでしょうか? [アプローチ] 必要以上に悪く言われてしまっている魏延。ここでは魏延の名誉回復といきたいところなのですが、魏延が楊儀と争って誅殺されたという事実、蜀に迷惑をかけてしまったという事実は変わりません。そこでまず本物の魏延の死に至った経緯を考察した上で、演義における魏延の行動様式を比較検討していきたいと思います。 [魏延の思考] 魏延が蜀の一員になった経緯を見てみると、魏延は趙雲や孫乾の様に、もともと武官や文官として採用されたのではなく、ただの兵隊長から身を起こした、まさに叩き上げの武人であると言えます。このような職人タイプの人間は案の定とてもプライドが高く、自分の意見を押し通したがります。その分魏延には自分はこの蜀に非常に尽くしているし、周囲もそれを認めているだろうと言う自負心があったように思われます。韓信の故事をまねたいと言っているのは、自分には韓信と同じ事をするだけの能力があるという自信があったからだというのは間違いないでしょうし、この時点で魏延は韓信大元帥と同じように、自分があたかも魏延大将軍として軍を引っ張っていると思っていたはずです。ただ問題なのは、それがあくまで一人の考えだと言うことでした。 魏延が自分を過度に意識していたことを示している場所がもう一カ所あります。それは、孔明が死んだことを費 しかし、僕個人が思いますに、趙直の夢占いというものも魏延に影響を及ぼしていたのではないでしょうか。当時は占いというものはかなり信じられていました。(今も占いを信じきっている人が多いような気もしますが、それはおいといて)魏延からしてみれば趙直の夢判断を疑う余地は全く無いわけであり、これによって魏延は自分にとって都合がいいように事が進むだろうと信じてしまったわけなのです。このことが孔明死後の魏延の北伐続行主張に関係ないとは言い切れないのではないでしょうか?そうなると魏延の思考を決定する要因の中に趙直が含まれていたことになり、趙直の無責任な夢判断が蜀の歴史を変えてしまったという恐れもあるのです。 又、それと同時に魏延の上の発言には孔明軽視の考えが現れています。自分を持ち上げて考えれば孔明は必然的に下がっていくのかも知れませんが、魏延の頭には孔明を特別視するといったことが無かったようです。孔明の死を一般武将の死と同様にとらえ、「お前達は勝手に国に帰って埋葬するが良い」という趣旨の発言をしたことからも伺えます。 では、その次の「この魏延を誰だと思っているのか。楊儀ごときの指揮を受け・・」の文章も魏延のプライドがそういわせたのでしょうか?ちょっと違うような気がします。今までの発言と異なり、この発言は楊儀に対する憎しみから生まれたように思われます。 [魏延と楊儀] 魏延と楊儀は犬猿の仲であったと言います。この事は色々なところで語られており、特に費 魏延の性格は今までに説明した通りなので特に説明し直すことはしません。ここでは楊儀について見てみたいと思います。楊儀は尚書時代に清潔高尚の上司劉巴とうまくいっておらず、弘農(?)太守に左遷されています。楊戯の意見では楊儀は「多くの人に異を唱え」とあります。言うまでもないかもしれませんが、魏延伝にある「楊儀だけが魏延に対して容赦無い」の『容赦』とは別に「張飛が自分の部下に『容赦』が無かった」の『容赦』とは違って、『物言いが激しかった』の意味であるということがここからわかります(酔っ払った楊儀が魏延を張り倒すシーンは想像がつかない)。以上より、楊儀はもともと他人とトラブルを起こしやすく、それは自分の性格から来ていると言うことがわかります。 プライドが高く、誰もが自分に媚びている魏延と、お構い無しに異を唱える楊儀。この二人がお友達になる可能性は・・まず無いでしょう。最初の頃は単に「頭にくる男だ」と思っていただけだとしても、孔明のもとで長いこと一緒にいれば、それが憎しみに変わって行くことも想像がつきます。 [ああ!魏文長、漢中に死す] 孔明の死後、楊儀が軍権を握ることにより、楊儀と魏延の決裂は確実なものとなります。魏延のほうには楊儀の下につくことに対する拒絶感があった上に、長史である楊儀に指揮権が移った孔明の人事に対する疑問もありました。更に自分を取り残して退却を始めたことにより、魏延は楊儀の自分に対する完全な悪意を確信したのでしょう、「楊儀だけは殺す」の一心で楊儀と戦いましたが王平に敗れ、漢中に出奔したものの追撃してきた馬岱に切り殺されたのです。 しかし疑問が残ります。何故、以前と異なり費 [謀叛か内部分裂か] 後主伝には魏延謀叛の字はありません。指揮権を争って攻撃しあったとあります。楊儀伝では魏延殺害を誅殺と表現していますが、魏延伝においては最後に魏延に反逆の意志が無いことを述べています。さらに、資料が手元に無いのでデータとしては大きく取り上げられませんが、楊儀と魏延が互いに上奏したときに董允や [魏延と孔明] 魏延と孔明を語る上で外せない「反骨の相」が演義のオリジナルであることはすでに言いました。実際は魏延が孔明を臆病者として軽蔑していたことはありましたが、逆に孔明が魏延に対して悪意を持っていたということはなかったのです。 長安奇襲作戦の話は孔明と魏延の仲の悪さを指摘するものとして演義で取り上げられていますが、多くの専門家はこの魏延の作戦を批判しており、孔明が魏延の策を取り上げなかったのは魏延に対する悪意でも何でもなく、不可能な作戦だから取り上げなかっただけなのです(この作戦が成功しているのは反三国志のみで、しかも反三国志では魏延がこの長安襲撃後は節度を守り、己をわきまえる良い子になっているから驚き。さすが反三国志)。 劉 孔明は魏延と楊儀の仲が悪いことに関してどちらかに非を求めているのではなく、あくまで楊儀と魏延の二人共に対して残念がっているのです。以上のことより、魏延と孔明の間には特に問題はなかったと言えるでしょう。 [演義での魏延] 実際は蜀の名将であった魏延、しかし、彼にとっての不運は、彼が嫌っていた楊儀が三国志演義のスーパーヒーロー孔明に指揮権を委ねられていたことにあったのです。「一時的とは言え孔明の跡を継いだ楊儀への攻撃は、孔明への攻撃と同じであり、三国志演義の主役に逆らう悪ではないか」と羅貫中は解釈しました。よって魏延は必要以上に悪役となったばかりか、この人間は悪人で、いつかこういう運命が待っていると言うことを暗示させるフレーズを文章にちりばめたのです。まさにサブリミナル効果!今やったら犯罪になるこれを羅貫中は見事に成し遂げました。例を挙げますと、
[まとめ] 実際は楊儀との関係によりはるか後期のほうで起こった出来事を魏延の集大成として扱った羅貫中。劉備と孔明を前面に押し出す作業を進めた結果、魏延はこの作業のコマに最も適しているとされ、最初から最後まで反逆者としての反逆者らしい人生を創られる羽目になってしまいました。そういった意味で魏延は死後1000年も経った後に羅貫中の悲しき操り人形という運命を背負うことになったのです。 羅貫中に創られた「わしを殺せるものがあるか!?」という死の直前の魏延のセリフ。それに何故か魏延らしさを感じてしまうのは皮肉なことです。 |